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長崎市新地町の歯科医院。たなかデンタルオフィスです。

院長生い立ちfacilities

おとなしく、泣き虫な幼少期

 
昭和42年7月1日南高来郡加津佐町(現南島原市加津佐町)に歯科医師の父と専業主婦の母を持つ3人兄弟(男、男、女兄弟)の2番目として大きな期待を背負って誕生。
特に大きな病気をすることもなく、スクスクと成長したようです。

 

この頃は、休みの度に両親が子供3人を長崎市内の水族館(現在のペンギン水族館)での「仮面ライダーショー」や「ウルトラマンショー」に連れていってくれました。当時は仮面ライダー等のヒーロー物に憧れた時でもあり、毎日”変身”ばっかりしてました。

柔道を始めた小・中・高時代

 

この当時は事あるごとになぜか訳もわからずメソメソ泣いておりました。この”泣き虫な息子”を強くしようとの両親の思いから(小学校3年生頃から)柔道を習い始めました。
柔道の修行もはじめのころは、お腹が痛いとか、頭が痛いとか何とか休もうと画策しましたが母に阻まれ渋々通っておりました。しかしながらだんだんと慣れてきてからは進んで練習に励みました。
また、家族旅行などでは(強引な父親の司令のもと)、当時流行の西城秀樹(ちびまるこちゃんの時代でしょうか)のモノマネで場を盛り上げていました。



中学校1年の時には、幸運にも中学校体育大会の柔道団体にて全国大会(講道館)に連れて行って頂きました。白帯で果敢にも黒帯相手に健闘しています。



高校3年の時には、インターハイに柔道個人戦(86kg以下級)で全国大会に出場。この写真は九州大会(沖縄開催)での1枚です。決勝戦まで勝ち上がる予定でしたが、、、、、、。勉強は二の次で柔道に明け暮れた日々を送っておりました。そういえば、勉強の事はほとんど出てきてないですね。またこの頃は、大学進学を具体的に考える時期でもあり、柔道の恩師からは柔道の強い某有名私立大学へ進学し、将来は柔道の指導者になるようアドバイスを受けたこともありました。しかしながら、生まれてからこれまでずっと歯科医師として我々家族を一所懸命養ってくれた父の背中を見て育っておりましたので、何の迷いもなく歯科大学への進学を選びました。

親元を離れ、部活、勉強、(遊び、飲み)に自由に明け暮れた大学〜



定期試験前日からの一夜漬け勉強をこなし、優秀な成績(ギリギリという言葉が的確かも知れません)で乗り越え、柔道も続けながら(毎年行われる全日本歯科学生体育大会の柔道個人戦86kg以下級で6年間連続で優勝(大会史上初だそうです)しました。)無事卒業、国家試験を見事合格。卒業後は博多の地を離れ、北九州は小倉の九州歯科大学大学院へ進学しました。



大学を卒業しても、大学時代の柔道部の先輩後輩の方々とは交流をさせていただいています。
今でも、日々の診療における色々な出来事の相談ができる仲間です。



開業の前年(平成16年)勤務先の町内会青年団の1人として本古川町御座船(もとふるかわまち ござぶね)根曳(ねびき)として長崎くんちに参加させて頂きました(写真手前が私です)。